2006年04月30日
第65話 1号線
店長~、さっき道を聞かれて「58号線を・・・」って説明したら、「1号線ねえ?」ってきかれたっす。なんとなく「そうっす・・・」って答えたんすけど、58号線=1号線でいいんっすよね?
問題ないぞ。聞いてた人は50代くらいっだっただろう?その世代以上は58号線=1号線と表現することが多いからな。
国道58号線(通称ゴッパチ)は、本土復帰以前までは1号線と呼ばれていました。1号線の由来は戦争中にさかのぼります。沖縄に上陸した米軍の物資輸送目的で作られた道路で「合衆国1号」と呼ばれていたそうです。その後「軍用1号」または「ハイウェイ1」となりました。緊急の滑走路にも使うことを想定していたそうです。
タクシーの運転手さんも時々使う方がいるので、沖縄旅行で道案内をしてもらう時「1号線」といわれても、「国道58号線」のことですので混乱しないでくださいね。
2006年04月27日
第64話 730 ナナサンマル
店長~!沖縄は昔、自動車が右側を走ってたって本当っすか?
・・・昔って・・・1978年(昭和53年)7月30日から、今の左側通行になったんだ。730(ナナサンマル)と言えば復帰前後の人たちには記憶に新しいと思うぞ。それまでは道路の右側を自動車は走っていた。私の父も左ハンドルの車だったぞ。バスの乗降口も右側にあった。
本土復帰したのが1972年っすから、6年間はアメリカ式のままだったんすね!でも、7月29日までは右側通行だったわけっすよね?そんなに急に変えて大丈夫だったっんすか?
いや、特に右折車両が間違って反対車線に入ったり、とっさに切ったハンドルが右側だったせいで大事故になったり、大変だったようだ。それから、ヘッドライトのビームの高さを右走行用から左走行用に高さ調整したな。
・・・?何か違うんすか?
右走行用の高さのまま左車線を走ると、ヘッドライトが対向車の運転手に眩しい高さになるらしい。だから730以前にライトの高さを調整して備えたわけだ。
でも、それじゃあ730以前は眩しいじゃないっすか!?
そこで、調整済みの車はヘッドライトの中央付近に幅5cmくらいの銀色のテープを横一文字に張って光を抑えたんだ。若干暗くなるのは仕方ないことだと納得していたな。
学校やテレビ・ラジオでは「人は右、車は左」と毎日叫んでいたぞ。
2006年04月23日
第63話 ハジチ (針突)
沖縄のオバアの手の甲には刺青がある人がいるっす。
ハジチ「針突」と言って竹で作った針で突いて染めた刺青っす。
だいたい明治・大正生まれのオバアが多いっす。
結婚した女性のしるしだと聞いた事があるっす。
明治の頃に野蛮であるという理由で禁止されたようですが、しばらくの間続いていたようです。奄美、沖縄での風習で、それぞれの模様には厄除けや守護のまじないの意味があり当時の女性にとっては高級なファッションだったようです。貧しい家の女性はハジチをするためにアルバイトをしたくらいだそうです。高いお金を払って、痛みに耐えてまでハジチをしたのですから、かなり重要な意味をもつファッションだったんでしょうね。
ハジチが完成するまでの時間、じっと痛みに耐えないといけないわけですから女性の辛抱強さってすごいと思います。
今で言うとネイルアートといったところでしょうか?ネイルアートも何時間もジッとしていないといけないそうですから、手の甲とか爪先とか女性のオシャレって大変だなあ。
2006年04月17日
第62話 琉球切手。久米島切手
復帰前の沖縄の切手は「円」ではなく「セント」が書かれていました。これが琉球切手です。流通していた通貨単位が「ドル」「セント」だから当然のことですが、歴史的には貴重なものです。
そして、もっと貴重なのが久米島切手。もう、切手といっていいのかどうかも微妙です。なにせ、当時の郵便局長の印鑑を押すことで間に合わせ的に通用させた切手らしいです。
復帰直後、この琉球切手や久米島切手の価値が上がるという噂でかなり投資した人もいたようですが期待以上の価値は出なかったようです。ウチナーンチュの切手に対する価値観が保存状態を悪くしたせいかもしれません。
間に合わせの切手、それに振り回された人々。戦争って、こんなところでも被害者を生んでいるんですね。
2006年04月16日
感謝 5000突破
気づいてみれば、アクセスカウンターが5000を突破していました。
不定期な更新にお付き合いいただいた皆様のお陰です。有難うございます。
今後もコメント、ネタ、などよろしくお願いいたします。
沖縄のことが少しずつ分かってきて楽しいっす。このブログやってて良かったっす。
これからも頑張るので、よろしくお願いしますっす!
Posted by 幸作 at
22:44
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2006年04月15日
第61話 シーミーグッズ
4月と言えば沖縄では清明祭=シーミーの時期です。基本的には「お墓参り」ですから、墓掃除や草刈をしますが、沖縄の場合は親類一同が料理を持って集まり、さながらピクニックのようにお食事が始まります。もちろん、料理はご先祖にお供えした後に頂きます。
この時期、スーパーやディスカウントショップでは「シーミーグッズ」がたくさん店頭に並びます。お線香や食器、お膳、鎌、エンジン草刈機、ブルーシートや虫除けスプレーなど、大事な年中行事ですからお店側も品揃えには手を抜きません。
さて、今回物凄いものを見つけました。
その名も「ハブノック」。まるでゴギブリを退治するかのようにハブに向かってスプレーするそうです。使用方法に書かれたていたことを紹介すると・・・
「ハブに飛びかかられない様に十分離れる」
十分離れる余裕があるのなら、さっさと遠くに逃げたほうが安全なのではないでしょうか。ちなみに、ハブのジャンプ力は3mくらいあるといわれています。それ以上離れてもスプレーは届かないと思われます。無理に戦わず逃げ出しましょう!
「噴射して5分~15分で効果が出始めるので、その間は近づかないこと」
そんなに時間がかかるなら、その間は物凄く危険だと言うことですよね。スプレーに逆上したハブが襲いかかって来たら余計に危険です。
「ハブが確実に死亡したことを確かめてから近づくこと」
ハブが生きていようが死んでいようが近づかないほうがいいと思います。
結論、このスプレーは使えない・・・
2006年04月06日
第60話 続・生まれた私はナニ人?
http://page.freett.com/gpzagogo/pass.html より、引用しました。
第1話の疑問の解答がインターネットに載っていたので続編を送りします。沖縄が米軍統治下の琉球政府時代に、沖縄と本土を行き来するときに使われた「パスポート」です。「パスポート」と言っても正式には身分証明書となっています。中身は本人の顔写真、生年月日、本籍などが記載されていて、出入国の際のスタンプが押されていますので「パスポート」そのものです。左はナイチャー、右はウチナーンチュが使っていたものですが、色と形の違いは発行年度が違うため年度の違いによるものかも知れないそうです。
ウチナーンチュが使っていた右側の「パスポート」には
「本証明書添付の写真及び説明事項に該当する日本人○○○○は本邦へ渡航するのであることを証明する。
昭和○年○月○日 内閣総理大臣
交付官庁 日本政府沖縄事務所」
と記されています。ということは、沖縄から本土に渡った人間は「日本人」だと言うことになります。生まれたときの私は「日本人」で間違いないです。
いや~長年の疑問が解けました。
2006年04月03日
第59話 ポークランチョンミート
唐、薩摩、アメリカ。沖縄にはいろんな国の食べ物が沖縄風にアレンジされて生活に溶け込んでいます。ブラジル、スペイン。そしてデンマークのポークランチョンミート!
物心のついた頃には食卓にあったポークランチョンミート。豚肉を加工して缶詰にしたデンマーク生まれの「ポーク」は、なんと沖縄が日本一の消費量だとか。ポーク玉子に、ポークおにぎり、ポークサンドイッチ、ゴーヤーチャンプルーにも合いますし味噌汁の具に使ったりカレーに入れたりもします。調理済みなので軽くフライパンで焼く程度で食べれ、塩がきいていますから「アジクーター」=「こってり味好き」なウチナーンチュには広く受け入れられている食材です。
アメリカ統治時代に米軍によって持ち込まれたそうで、いまではアメリカ人よりも沖縄人のほうが良く食べています。私の小さいときはかなり塩気が強かったのですが、最近は減塩タイプも販売されていて健康ブームにも対応しています。スーパーでは安売りの目玉になるほどポピュラーです。我が家にも結構買いだめしてあります。
その消費量No.1の沖縄だからでしょうか、デンマークからの大使は日本に来た際には必ず沖縄に立ち寄るそうです。ん~~~国際貢献してますね
2006年04月02日
第58話 ブーサーシッ!
沖縄独特のジャンケンのことでブーサーといいます。掛け声は「ブーサーシッ!」。ルールはジャンケンと同じです。それぞれ親指がグー。またはハブ。人差し指がチョキ。またはカエル。小指がパー。またはナメクジ。の役割です。
ハブ>カエル>ナメクジ>ハブ・・・の関係は三すくみから来ているようです。
他にも火(親指)>蛇(人差し指)>水(小指)>火(親指)・・・の説も有るようです。
このブーサーの指の形は、なんとインドネシアのジャンケンと同じらしいです。ひょっとして沖縄が東南アジア諸国と交易をしていた時代に外国から伝わったのでしょうか?
現在ではほとんど使われなくなりましたが、歴史を語る上で重要な文化かもしれません。継承していきましょう!さあ、みんなで掛け声「ブーサーシッ!」